読み直し

2021年5月12日 エッセイ
この映画、今観たらどんな感じを受けるんだろう。 

書いた当時はまだまだだったよな。

うーーん。  

☆☆☆☆☆☆☆☆
○I am SAM
2003年8月23日


この所、しばしば不安定の発作に襲われる。

確かに、えのく夫婦の自殺騒ぎや、Y子さんの「電話じゃ話せないから、会って話しを聞いて」という恐怖の誘いに怯えたのもあるのだが・・・・。

そればかりではなく、どうもこの映画を見て、私の中の奥に仕舞ってある扉の一つが、また開き始めたようなのだ。

ヒロとのいざこざが元で、心の奥底にガチガチに凍り付いていた永久凍土の様な記憶が溶け始めたのはいいんだけど、そのたびに当時の恐怖や不快感を感じ直すのには参ってしまう。

この「アイ アム サム 」という映画の内容そのものが、私の記憶の一番古い所でこびりついていながら、声を大にして言ってはいけないと自警し、その為に自らを不自由な状態に追い込んでいる事柄そのものだったのだ。

本当に、人目に晒している日記に書くのは、憚られる言葉なのだとは思う。

でも、だからこそ、書いて、あえて聞いてもらいたいと、切に願っている事柄なのだとも思う。

私は、この映画が嫌いだ。知的障害者を父に持ち、人より賢く生まれた子とその父の美談にしている所があざとくて特に嫌だ。

あの娘は年より早く大人にならざるをえない状態に置かれて、父の為に自分の子供時代を犠牲にしているというのに・・・・・

私は生まれた時から引っ越すまでの七年間、知的障害の有る3兄弟の隣の家で過ごし、彼らと一緒に遊んでいた。

行動範囲の狭かった三歳頃までは、特に彼らと、私よりも十歳年上の、やはり知的障害のある彼らの従兄弟と接する機会が多かった。

その従兄弟は、未だに女性の下着を盗んでは時々警察のお世話になっている奴だ。

知的障害者は、本当に天使みたいに純粋無垢なのか?

自分の欲望にのみ純粋に正直で、他人の都合なんてお構い無しな奴、多くないか?

っていうか、自分以外の人の事が考えられていれば、知的障害とは言われないかもだ。


そのうち、この不快な感情が出尽くしたとき、新しい感情が湧いてくるかもしれないけど、今はこの「当たり前に自分勝手な幼児でいられなかった時期の私」をきちんと見つめて、その時どうしたかったのか、どんな気分で過ごしていたのかを納得しない事には、知的障害者に対する嫌悪感を消し去る事が出来ないと思う。

暫くは、しっかりこの事から目をそらさないで付き合わないと・・・・・。

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