草の輝くとき 花美しく咲くとき
ふたたび それは還らずとも
嘆くなかれ
その奥に秘められし 力を見出すべし
by ワーズワース
映画の為のオリジナル脚本だそうだけど、原作本があるかのような重厚な見ごたえのある作品だ。
作品中で重要な役割を果たしているワーズワースの詩を聞いていると、わしの好きなアイルランド民謡「春の日の花と輝く」を思い出す。
春の日の 花と輝く うるわしき姿の
いつしかに褪せて うつろう
世の冬は来るとも
わが心は 変わる日無く
御身をば 慕いて
愛は なを 緑色濃く
わが胸に 生くべし
若き日の 頬は清らに
患いのかげ無く
御身 いま あでに麗わし
されど 面あせても
わが心は 変わる日なく
御身をば 慕いて
ひまわりの 陽をば恋うごと
とこしえに 思わん
堀内敬三氏の訳詞も素晴らしいんだけど、この歌だけは人前では決して歌わない。
なぜか?
歌ってる途中で涙がでてくるのよ。何でなの~? 切ないわ~(’_’)
主役のナタリー・ウッドが一番美しく輝いていた時の作品であり、もう一人の主役ウォーレン・ベイティにとってはデビュー作。
高校生の役が無理なく演じられる若々しい二人の、辛く苦しい恋物語である。
相性というのは不思議なもんで、会って楽しいとかその人の声を聞くのもおぞましいとか色々あるんだけど、やたらめったら「セックスしたいっ!」と感じる人もいる。
阿部定事件ぢゃないけど、とにかく会ってる間中セックスしてないと気が済まない(身体がか?)獣の様な関係ってのも、本当にあるんだよね。
似たもの同士とでも言うか、突き詰めれば刃傷沙汰になる関係だよね。アブナイよ。
カップルの相性から言うと、双方ともに丸が沢山ある相手よりも、三角やバツが少しある方が長持ちするという。
親子関係でもそうなんだけど、お互いが何かを「学ぶ」為に今同じ時間を過ごしているんだからね。丸ばかりだと、合い過ぎてお互いが破滅するなんてこともあるんだとか。
この作品の中での主役二人の行動を「何でそんな事が理解出来ないの? 」と感じる人もいるかも知れない。お互い愛し合ってて、学業が終われば結婚出来るっていうのに、なぜ待てないのか? と。
この二人はお互いに親子関係の不安定さを抱えていままで生きてきた。親の言いなりになっている自分に、その先の悪い予感を感じているのも事実。お互いが親に可愛がられ、溺愛されている為に精神的な自立が出来ていなくて、また親も子離れ出来ていない。
傍目には威圧的な父であり母なんだけど、彼らなりに子供をとても愛しているのだ。だけど、やわらかい愛情表現の方法を知らないで、無駄に歳を重ねてしまった人達だ。
他者を支配する人は、かつて自分が親や社会的な力に支配されていたから、誰かを支配していないと不安なのだわ。
ただそれだけの事。
結局は、自分の感情をコントロールする術を身に着ける事が出来なかった人たち。
ただそれだけ。
ナタリー・ウッド演じるディーニーの母親が娘に向かって言う「私も母親が嫌いだった。だけどそのまた母もそうやってずっと育てられて来たのよ」というセリフは、実際にこういう人が口にするかどうか判らないけど、ひとつの救いではある。
気づいたという意味では。
まぁ、娘がそこまで不安定にならないと気付けなかったのは悲しいが、気づいた時点で自分を変えればいいだけだから。
だけど、この母親は頭でわかっているだけで、まだ腑に落ちてる訳じゃない。80年前の時代の物語だからね、仕方ないんだが。
でも今から48年前の映画で、そのセリフを言わせているのは、さすが。
ディーニーを診察する精神科(当時はまだアメリカにも心療内科は無かったろう)の先生の言う「親だって人間だよ」の意味を、彼女が腑に落ちて理解すれば、親子関係で苦しむ事も少なくなり、身も心も本当の意味で楽になるだろう。
映画ではそこまでは追わない。
ただ、先に書いた「会えば寝ずにはおかない相手」との関係の行方に焦点を当てている。
それが愛なのか恋なのか、それとも単なる肉欲なのかは、観る人に任せてあるのもいい。
青春の一時期、狂おしい程に愛し求めた相手の存在。
今現代のわしらには、「そりゃあんた、単なるフェロモンの作用よ」とか「不安定な家庭環境でいつも心が心筋梗塞寸前の状態だから、そのドキドキを恋とを勘違いしたんじゃないの」とかの情報も持ってしまってるけど、それを言っちゃあ元も子も無いし。
なんてったって、今から80年前の人達のお話なんだから。
本当に好きだったんだろうなぁと思う。お互いを大切だと思うからこそ、オカシくなっちゃったんだわ。
で、破滅。
一時あまりの不安定さに感極まって心身ともにどうかしてしまうディーニーを演じるナタリー・ウッド上手だわ。
と思いながらチョコっと調べをしてみたら、あらら、わしと誕生日が一日違いでしたか。
この週生まれの人は、常にゆらゆらと振動している不安定さが身上なんだと星占いの本に有り、子供のころから「情緒不安定の問題児」と学校側からレッテルを貼られていたわしの悩みを、ものの見事に打破してくれたのだわ。
わしって、元々不安定な人なんだ。だからこそ、生きている間に「感情をコントロールする方法・安定感・バランス感を学ぶ」のだと判ったら、それだけで感情が妙に安定してきたから不思議。
・・・・ヒロちゃんといる時に、これを知っていればねぇ・・・・・
はぁぁぁぁぁ。覆水盆に返らず。
新たな水を汲むのみ。
きっとナタリーも、そういう生まれながらの不安定さに振り回された一人なんだろうね。実生活では恋多き女だったし、同じ相手と二度も結婚してて、死に方も事故か自殺か分からない。今では事故になってるけど、当時は「自殺」説の方が有力だった覚えがあるよ。
しかしだ。
この物語が今から約80年前という事は、我が家のボケかーちゃんの生まれた頃。という事は、この悩める二人はわしの爺さん婆さん達の世代という事だ。
・・・・・・。
こんな豊な国と知ってたら、端から戦争なんて絶対しなかったろうに。
無知は怖いねぇ。
余談だけど、この作品中ディーニーの母親がベランダのテーブルでスイカを食べているシーンがあって、それが見事に輪切りのスイカなんだわ。
いゃあん。
わしが今年発見したスイカの新しい食べ方を、80年前のアメリカですでにしてたなんて。
ああ、世界はまったく広い。
ふたたび それは還らずとも
嘆くなかれ
その奥に秘められし 力を見出すべし
by ワーズワース
映画の為のオリジナル脚本だそうだけど、原作本があるかのような重厚な見ごたえのある作品だ。
作品中で重要な役割を果たしているワーズワースの詩を聞いていると、わしの好きなアイルランド民謡「春の日の花と輝く」を思い出す。
春の日の 花と輝く うるわしき姿の
いつしかに褪せて うつろう
世の冬は来るとも
わが心は 変わる日無く
御身をば 慕いて
愛は なを 緑色濃く
わが胸に 生くべし
若き日の 頬は清らに
患いのかげ無く
御身 いま あでに麗わし
されど 面あせても
わが心は 変わる日なく
御身をば 慕いて
ひまわりの 陽をば恋うごと
とこしえに 思わん
堀内敬三氏の訳詞も素晴らしいんだけど、この歌だけは人前では決して歌わない。
なぜか?
歌ってる途中で涙がでてくるのよ。何でなの~? 切ないわ~(’_’)
主役のナタリー・ウッドが一番美しく輝いていた時の作品であり、もう一人の主役ウォーレン・ベイティにとってはデビュー作。
高校生の役が無理なく演じられる若々しい二人の、辛く苦しい恋物語である。
相性というのは不思議なもんで、会って楽しいとかその人の声を聞くのもおぞましいとか色々あるんだけど、やたらめったら「セックスしたいっ!」と感じる人もいる。
阿部定事件ぢゃないけど、とにかく会ってる間中セックスしてないと気が済まない(身体がか?)獣の様な関係ってのも、本当にあるんだよね。
似たもの同士とでも言うか、突き詰めれば刃傷沙汰になる関係だよね。アブナイよ。
カップルの相性から言うと、双方ともに丸が沢山ある相手よりも、三角やバツが少しある方が長持ちするという。
親子関係でもそうなんだけど、お互いが何かを「学ぶ」為に今同じ時間を過ごしているんだからね。丸ばかりだと、合い過ぎてお互いが破滅するなんてこともあるんだとか。
この作品の中での主役二人の行動を「何でそんな事が理解出来ないの? 」と感じる人もいるかも知れない。お互い愛し合ってて、学業が終われば結婚出来るっていうのに、なぜ待てないのか? と。
この二人はお互いに親子関係の不安定さを抱えていままで生きてきた。親の言いなりになっている自分に、その先の悪い予感を感じているのも事実。お互いが親に可愛がられ、溺愛されている為に精神的な自立が出来ていなくて、また親も子離れ出来ていない。
傍目には威圧的な父であり母なんだけど、彼らなりに子供をとても愛しているのだ。だけど、やわらかい愛情表現の方法を知らないで、無駄に歳を重ねてしまった人達だ。
他者を支配する人は、かつて自分が親や社会的な力に支配されていたから、誰かを支配していないと不安なのだわ。
ただそれだけの事。
結局は、自分の感情をコントロールする術を身に着ける事が出来なかった人たち。
ただそれだけ。
ナタリー・ウッド演じるディーニーの母親が娘に向かって言う「私も母親が嫌いだった。だけどそのまた母もそうやってずっと育てられて来たのよ」というセリフは、実際にこういう人が口にするかどうか判らないけど、ひとつの救いではある。
気づいたという意味では。
まぁ、娘がそこまで不安定にならないと気付けなかったのは悲しいが、気づいた時点で自分を変えればいいだけだから。
だけど、この母親は頭でわかっているだけで、まだ腑に落ちてる訳じゃない。80年前の時代の物語だからね、仕方ないんだが。
でも今から48年前の映画で、そのセリフを言わせているのは、さすが。
ディーニーを診察する精神科(当時はまだアメリカにも心療内科は無かったろう)の先生の言う「親だって人間だよ」の意味を、彼女が腑に落ちて理解すれば、親子関係で苦しむ事も少なくなり、身も心も本当の意味で楽になるだろう。
映画ではそこまでは追わない。
ただ、先に書いた「会えば寝ずにはおかない相手」との関係の行方に焦点を当てている。
それが愛なのか恋なのか、それとも単なる肉欲なのかは、観る人に任せてあるのもいい。
青春の一時期、狂おしい程に愛し求めた相手の存在。
今現代のわしらには、「そりゃあんた、単なるフェロモンの作用よ」とか「不安定な家庭環境でいつも心が心筋梗塞寸前の状態だから、そのドキドキを恋とを勘違いしたんじゃないの」とかの情報も持ってしまってるけど、それを言っちゃあ元も子も無いし。
なんてったって、今から80年前の人達のお話なんだから。
本当に好きだったんだろうなぁと思う。お互いを大切だと思うからこそ、オカシくなっちゃったんだわ。
で、破滅。
一時あまりの不安定さに感極まって心身ともにどうかしてしまうディーニーを演じるナタリー・ウッド上手だわ。
と思いながらチョコっと調べをしてみたら、あらら、わしと誕生日が一日違いでしたか。
この週生まれの人は、常にゆらゆらと振動している不安定さが身上なんだと星占いの本に有り、子供のころから「情緒不安定の問題児」と学校側からレッテルを貼られていたわしの悩みを、ものの見事に打破してくれたのだわ。
わしって、元々不安定な人なんだ。だからこそ、生きている間に「感情をコントロールする方法・安定感・バランス感を学ぶ」のだと判ったら、それだけで感情が妙に安定してきたから不思議。
・・・・ヒロちゃんといる時に、これを知っていればねぇ・・・・・
はぁぁぁぁぁ。覆水盆に返らず。
新たな水を汲むのみ。
きっとナタリーも、そういう生まれながらの不安定さに振り回された一人なんだろうね。実生活では恋多き女だったし、同じ相手と二度も結婚してて、死に方も事故か自殺か分からない。今では事故になってるけど、当時は「自殺」説の方が有力だった覚えがあるよ。
しかしだ。
この物語が今から約80年前という事は、我が家のボケかーちゃんの生まれた頃。という事は、この悩める二人はわしの爺さん婆さん達の世代という事だ。
・・・・・・。
こんな豊な国と知ってたら、端から戦争なんて絶対しなかったろうに。
無知は怖いねぇ。
余談だけど、この作品中ディーニーの母親がベランダのテーブルでスイカを食べているシーンがあって、それが見事に輪切りのスイカなんだわ。
いゃあん。
わしが今年発見したスイカの新しい食べ方を、80年前のアメリカですでにしてたなんて。
ああ、世界はまったく広い。
コメント
最近、私もバランス感etcについて気付き始め、今からでも遅くない思っているところ。楽に人と繋がっていけるようになるためにも、心して行くつもり。
「Believe Me if All Those Endearing Young Charms」として知っていたけど(愛しのひとがIrishなので)、この日本語訳、素晴らしいですね。この訳詩の方が良いくらい!
もうすぐお誕生日なんですね。お互いに、気分良く年を重ねていけるように、毎日をだいじに、こなしていきましよう。
早速のカキコ感激です。彼はアイリッシュですか。私はクライブ・オーウェンを好きになってから、アイルランドが妙に気になりだしました。そしたらこの曲がアイルランド民謡だったと気がついて、あらまぁって感じです。
人間死ぬまで気づきの連続ですよね。いつだって遅く無いと思います。本当に、毎日を大切に生きていきましょう。Mimiさんの「彼が死んでも・・・」のくだりには、切なくなりました。いつかは来るんでしょうが、出来ればもう少し後にしてもらいましょうよね。