香港国際空港も開港してすでに10年。

早いな早いな、しかしわしの身体にはまだカイタック空港の感覚がほんのり残ってて、いまだに新空港に対しての「遠い・運賃が高い」という気分が抜け切ってていないのだが、それでももう10年間も利用し続けてんだわな。

歳かすら・・・、時世の流れに眩暈すら感じるこの頃だ。

物凄い埋め立て工事の末に出来上がった新空港は、ランタオ島という離島に有り、此処は元々は「お寺の有る島」として親しまれていたという。

島のほぼ中央あたりに大きな山があり、そこに歴史のある「ポーリン寺」という仏寺が建っているからだ。

今から13年前、ここに大きな大仏が建てられた。

その時、大仏様の一般参拝初日にたまたま香港に居合わせたわしと師父は、その日が初日とも知らずとに角新しい観光名所に行って見るべと出かけ、僅かなお布施でお弁当やミネラル・ウォーターやお菓子をたんまり頂きこの寺がすっかり好きになった。

当時は香港島から船で行くしか交通の手段が無く、港からお寺までの道も急勾配の山道でエンストしてズルズル滑り落ちる様なオンボロのバスしかなかったけど、それはそれで面白かったさ。

友達が船の中の売店で、わしの真似してラーメン食べて船酔いしたっけなぁ。揺れたよなぁ、あの船。

だけど今は色々なコースを使って行くことが出来る。

船、鉄道、バス、金に糸目を付けなければホテルからタクシーでも行ける。

そして今一番新しいのがロープー・ウェイだ。

地下鉄の終点がロープー・ウェイの麓駅になっていて、そこから僅か15分で山のお寺に行く事が出来る。

僅か15分っ!

船で1時間、バスで1時間掛かっていたお寺に、僅か15分で行けるなんて・・・

しかし、話はそれ程甘くない。

そのロープー・ウェイに乗るための待ち時間が約1時間半〜2時間なのだ。

それに香港はもう大中国の物。豊かになりつつ有る中国人民が続々押し寄せてくるから、「皆が飽きた頃に乗ろう」なんて日本的な考えでいると、多分100年以上乗れないだろう。

ホントに今回の香港はこの人民の方達で、どこも物凄い行列が出来ていた。2年前より酷いし、多分年々凄い事になるんだろうなぁ。

何と言っても人民は億単位でいらっしゃるんだからねぇ。

それでも乗り心地は良いので、一度は乗ってみる事をお勧めしますよ。往復じゃなく、早い時間の帰りだけとかね。

今回香港在住の友達は誰一人乗ってなくて、どうだったどうだったと散々聞かれたわい。

風が強いとよく止まるんだよ〜とか脅かされたし。

幸いわしらが乗った時はスムーズに行けたけど、新聞読んだら確かに「止まってしまい中でカンズメ」とかの記事があったりして、まぁそれも仏の御心って事かもなぁだ。

10年振りに行ったお寺は、それこそもう目覚しい変わり様で、ロープー・ウェイの頂上駅には小さな売店村まで出来ていた。

言うなれば仲見世ってところだわな。

そこから少し歩くとバスや車・タクシー用の大きな停留所があり、大仏様に登る階段もすぐ近くに有る。

お寺の本堂はもっとずっと奥になり、確かにデカイ敷地面積を持つお寺なのだ。

このお寺には精進料理を食べさせる場所もあり、10年前の記憶では美味しかった。日本の旅行代理店などで「拝観料込みで幾ら幾ら」とか書いてあるが、基本的にここの大仏様は「拝観料」なんて取らない。誰でもタダで階段を登っていけるよん。

それは本来「お布施」の意味で、日本的な拝観料とは別の意味合いだろうになぁと思うのだが、まぁいいさ。

昔食べた時は、料理に2種類の値段が付いていた。でも高い方と安い方の料理の中身は同じ。

何故高いのかというと、食べる場所にエアコンが有るか無いかの違いだけだったが、果たして今もそうなのかは知らない。


今回も2種類の値段が付いてたのを見たけど、食事はしなかったしね。

ここにはお寺とは別に、個人経営らしいレストランもある。

が、凄く山道に入って行くから、着くまでにちょっと怖くて心配になるんだがの。

山の上らしい、静かでのどかな田舎の食堂なので、試しに食べてみるのもいいかもね。

その少し先に「香港青年の家」があって、週末なんかに若者達が留まって山歩きなんかを楽しむ場所なんだよね、ここは。

今回そこに「心経の路」が出来たので、1人で行って見る。

師父と行った時はロープー・ウェイに乗るのに時間が掛かりすぎてゆっくり出来なかったので、次の日の自由行動の折に、ディスカバリー・ベイまで船で行き、そこからバスを乗り継いでお寺に行ってみた。

二人で行ってるのに「自由行動」。いつもバラバラに香港を楽しむわしらなのだ、実は。行きたい所はそれぞれ違う時もあるしね。

今回バスも全部新型になっていて快適このうえない。だけど運転が乱暴なので、うっかり居眠りこいてると頭をガンガン何処かにぶつけまくるのは相変わらずだったが・・・。


「心経の路」まで来ると、それ程人は群れていないし、来てもトットコ帰ってしまう人が多い。

山の斜面伝いに大きな木が建っていて、そこにお経の文句が書かれているだけだから、詰まらないと思う人には詰まらない場所でもあるんだわな。

だけどその経典を判らないなりに読み進んでいって、最後の頂上に建っている木までたどり着ければ、なんとな〜く般若心経で言っている事の意味が判る気がするのだ。


ああ、そうですよね〜って感じに。

わしゃどこぞの宗教団体に属しているわけでも無いし、特別仏教を広めようという気持ちも無い。

だけど何となく、「日々是修行」って思うんだよね。

ただ闇雲にスガルのではなく、ヒントやメッセージを自分で見つけて、気がつく方が良いと思う性質なのだ。

そう思うからこそ余計に、一段一段登っていった先にあるこの木の意味を、感慨深く思ってしまうのかもね。

そこに何が書かれているのか、どうなっているのか興味のある人は、自分の足で実際に登ってみるといい。

ただ座って般若心経を読んだり唱えたりするよりも、なんか体で実感します。その意味を。

この前自分で書いた三年前の4月付けの日記をなんとなく読み返してたら、歳三兄さんとトンカツ屋で人生の修行について話した事が書いてあった。

書いた本人はすっかり忘れてたんだけど、丁度いいタイミングで読み返すもんだわな。

その時は、兄さんが「だけどさ、修行じゃ修行じゃってストイックに生きてさ、死んであの世に行った時神様に「たった一度の人生なんだから、好き勝手に生きてよかったのに、あんたなにやってたの」とか言われたら、もうブーーー、ファンファンファンファンファン〜だよなぁ」とか言って大笑いしたのだ。

そうかもね。誰の心も結局最後はあの心経の路の頂上に立つ木に行くのだろうけど、そこまでの道のりは人により様々なのだ。

生きている内にそうなれるのかどうかなんて、判らないし、それこそ誰かに、「そうしなさい」なんて強制される筋合いでもない。

「愛ルケ」の路を歩いて行くのも、そうでない路を行くのも、誰も口を挟めないし、挟める物ではないんだよね。

ただ、それを心底理解するまでキッチリ落し前を着けなきゃならないのは、義妹の時に痛い程感じたわしだ。


結局は生きている内に、腑に落ちて理解しないといけないものだと思うんだ。

お土産に広東語の般若心経CDを買ってみた。なかなか優しい声の人が歌っていて、親しみやすかったッス。

そう、歌なのよ。知らない内に覚えられるようにって作られたんだかな。面白いよ〜。広東語の勉強にもなります。(笑

今回調べてみたら、日本語のも結構出てるのね。びっくりです。ちなみに、この写真にあるCDの読経の声がどういうものなのかは、知りません。

あしからず、ゴメン。

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