バタフライ・エフェクト
2006年7月1日 映画 コメント (2)
DVD ジェネオン エンタテインメント 2005/10/21 ¥4,179
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「セックスと嘘とビデオテープ」の中で、劇場公開時に31歳のわしがうっかりして気づかなかったのが、J・スベイダー扮する男の抱える闇「自分という存在への嫌悪」だった。
彼が何であんなに「自分が他人に与えてしまう影響」を恐れていたのかを、ポッコラと見落としてしまっていたのだ。
結局の所、人生をあまり深く考えてなかった証拠だわな。
あれこそがあの作品の核でもあった訳だもの。
あの物語の中で一番精神を病んでいるかに見えた姉のアンが、実は一番前向きになる事が出来て、それを周りの皆に良い影響として与える事が出来たのも、何とも皮肉なお話。
自意識過剰で傲慢な夫だけが、他者の影響を拒否して、結果みんなの人生から離れて行ってしまった。
よく練った脚本でもあったんだよね。
そんな作品の直ぐ後に、同じく生きているだけで他人に多大な影響を及ぼしてしまうと考える男のお話を観る。
蝶の羽ばたきが、地球の裏側で台風を起こす事もある。
これは映画の冒頭に出てくる言葉だが、今この時点で同じ時を共有しているモノ全ては、お互いが少なからずの影響を及ぼしあって生きているのは当然だ。
ただ息をしてると言う行為だって、植物が作った酸素を吸って、炭素を吐いてそれを植物が吸ってまた酸素を吐いてと、繰り返し影響しあってるじゃないの。
ジェット・リー主演の「ザ・ワン」のように、別々の次元で生きている「自分」の生き様が、それぞれの次元で生きる「自分」の人生に大きな影響を及ぼすなんて考え方もあるし、術師のように「今の自分の生き様が、過去の自分の魂に影響を及ぼし、良くなろうとする事で過去に背負ってしまった苦しみから魂を解放する」なんていう考え方もある。
とに角、私達は望むと望まないとに関らず、全ての人達や自然や生き物達と、お互いに影響を与え与えられながら生きなければならないのだ。
四柱推命で見ても、お互いの関係や仕事やら全てにおいて「需要と供給」の仕組みで成り立っている。
必要だからその人と出合った、その出来事が有ったからこそこう考えた、等々。
そう考えれば、おのずと自らの身の処置方も判るだろう。
誰かが近視眼的な自意識過剰になり、今自分のとっている行為が他者にどんな影響を与えるのかをまったく考えられなくなったり、反対に考えすぎたりしていたら、わしは迷わず精神科か心療内科か、座禅道場か引きこもりか、または命の電話をすすめるね。
鍼や自律訓練も絶大な効果があるけれど、この「バタフライ・エフェクト」の主人公位の重症な自意識過剰になっちゃったら、もう自分でどうにか出来るレベルじゃない。
この脚本を書いた人達は、子供の頃どんな目に遭っちゃったんだろう。または、そんな友達やらを知ってるんだろうか。
自分という存在が過剰に大きくなりすぎたり、反対に全く意味の無いモノに思えたりするのは、それこそ周りから受けた影響そのものなのだが、だからと言って、それを理由に病気や犯罪に逃げてしまうのも悲しいもんだ。
平井堅ちゃんの「ドシャブリ」の歌詞に「あの言葉が言えたら あの言葉を止めたら ああ 今でも傍にいれた」というのがある。
わしゃ、ここで良く泣くんだがの。
だけど、過ぎちゃったんだから仕方ない。
言っちゃったんだから、もう元には戻せない。
出合っちゃったんだから、どうしょうもない。
無かったことになんか、できないんだよ。
それを踏まえた上で、人は自分の人生の道しるべを「自分」で見つけて「自分」で方向を決める。
お互いがお互いに影響を与え合ってるんだから、全ての責任を自分だけが負うというのも可笑しな話だ。
昔自意識過剰な人に対して「しょっちゃって」という言葉をよく使った時代があったけど、今はそんな「しょっちゃった」人達が多いんだろかね。
というか、背負わされてる子供が多いんだわな。うちのかーちゃんじゃないけれど、まだホンの幼児だったわしに向かって「男の子を堕ろさなけりゃならなかったのはお前のせいだっ」と感情的に怒鳴れるアホさを羨ましく思うよ。
でも、それはもう過ぎた事。ちゃんと有った事だし、この6年間でしっかり納得して受け入れた事。
そしてその幼児期に受けた理不尽な責任転嫁に対する怒りを、まるで関係ないヒロにぶつけたのも事実。これは有った事。自分が言っちゃった事。
影響は自分ばかりではなく、他者も又受けている。そして皆がそこから新しい道を見つけて動いている。
それらは、なんとなくアメーバーがグニグニと動きながらあっちこっちに移動していく様にも似ている。
毎日がただ同じように過ぎている訳ではない。見えないだけで、実際にはちゃんと動いている。
態度や言葉やらに影響を受けながら。
本当にいい方向に人生を持って行こうとするなら、過去をどうこうしようなどとは考えずに、今をどう生きるかを考えないと何も変わらないんだよと、この作品は訴えているようだ。
でないと、こんな悲しい結末になるよ、と。
この映画を作った監督達には、こんな遺書を残して死んだ友人がいたのかもしれないな。
「ごめんなさい」と「ありがとう」の言葉は、元気に生きている内に言うのが花だよね。
こうならない為にもね。
しかし・・・、頭良すぎるのもだめなのね。
天才とキチガイは紙一重、何事もホドホドが良いって訳だわな。
脳にも、使用禁止の領域があるのかもな。
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「セックスと嘘とビデオテープ」の中で、劇場公開時に31歳のわしがうっかりして気づかなかったのが、J・スベイダー扮する男の抱える闇「自分という存在への嫌悪」だった。
彼が何であんなに「自分が他人に与えてしまう影響」を恐れていたのかを、ポッコラと見落としてしまっていたのだ。
結局の所、人生をあまり深く考えてなかった証拠だわな。
あれこそがあの作品の核でもあった訳だもの。
あの物語の中で一番精神を病んでいるかに見えた姉のアンが、実は一番前向きになる事が出来て、それを周りの皆に良い影響として与える事が出来たのも、何とも皮肉なお話。
自意識過剰で傲慢な夫だけが、他者の影響を拒否して、結果みんなの人生から離れて行ってしまった。
よく練った脚本でもあったんだよね。
そんな作品の直ぐ後に、同じく生きているだけで他人に多大な影響を及ぼしてしまうと考える男のお話を観る。
蝶の羽ばたきが、地球の裏側で台風を起こす事もある。
これは映画の冒頭に出てくる言葉だが、今この時点で同じ時を共有しているモノ全ては、お互いが少なからずの影響を及ぼしあって生きているのは当然だ。
ただ息をしてると言う行為だって、植物が作った酸素を吸って、炭素を吐いてそれを植物が吸ってまた酸素を吐いてと、繰り返し影響しあってるじゃないの。
ジェット・リー主演の「ザ・ワン」のように、別々の次元で生きている「自分」の生き様が、それぞれの次元で生きる「自分」の人生に大きな影響を及ぼすなんて考え方もあるし、術師のように「今の自分の生き様が、過去の自分の魂に影響を及ぼし、良くなろうとする事で過去に背負ってしまった苦しみから魂を解放する」なんていう考え方もある。
とに角、私達は望むと望まないとに関らず、全ての人達や自然や生き物達と、お互いに影響を与え与えられながら生きなければならないのだ。
四柱推命で見ても、お互いの関係や仕事やら全てにおいて「需要と供給」の仕組みで成り立っている。
必要だからその人と出合った、その出来事が有ったからこそこう考えた、等々。
そう考えれば、おのずと自らの身の処置方も判るだろう。
誰かが近視眼的な自意識過剰になり、今自分のとっている行為が他者にどんな影響を与えるのかをまったく考えられなくなったり、反対に考えすぎたりしていたら、わしは迷わず精神科か心療内科か、座禅道場か引きこもりか、または命の電話をすすめるね。
鍼や自律訓練も絶大な効果があるけれど、この「バタフライ・エフェクト」の主人公位の重症な自意識過剰になっちゃったら、もう自分でどうにか出来るレベルじゃない。
この脚本を書いた人達は、子供の頃どんな目に遭っちゃったんだろう。または、そんな友達やらを知ってるんだろうか。
自分という存在が過剰に大きくなりすぎたり、反対に全く意味の無いモノに思えたりするのは、それこそ周りから受けた影響そのものなのだが、だからと言って、それを理由に病気や犯罪に逃げてしまうのも悲しいもんだ。
平井堅ちゃんの「ドシャブリ」の歌詞に「あの言葉が言えたら あの言葉を止めたら ああ 今でも傍にいれた」というのがある。
わしゃ、ここで良く泣くんだがの。
だけど、過ぎちゃったんだから仕方ない。
言っちゃったんだから、もう元には戻せない。
出合っちゃったんだから、どうしょうもない。
無かったことになんか、できないんだよ。
それを踏まえた上で、人は自分の人生の道しるべを「自分」で見つけて「自分」で方向を決める。
お互いがお互いに影響を与え合ってるんだから、全ての責任を自分だけが負うというのも可笑しな話だ。
昔自意識過剰な人に対して「しょっちゃって」という言葉をよく使った時代があったけど、今はそんな「しょっちゃった」人達が多いんだろかね。
というか、背負わされてる子供が多いんだわな。うちのかーちゃんじゃないけれど、まだホンの幼児だったわしに向かって「男の子を堕ろさなけりゃならなかったのはお前のせいだっ」と感情的に怒鳴れるアホさを羨ましく思うよ。
でも、それはもう過ぎた事。ちゃんと有った事だし、この6年間でしっかり納得して受け入れた事。
そしてその幼児期に受けた理不尽な責任転嫁に対する怒りを、まるで関係ないヒロにぶつけたのも事実。これは有った事。自分が言っちゃった事。
影響は自分ばかりではなく、他者も又受けている。そして皆がそこから新しい道を見つけて動いている。
それらは、なんとなくアメーバーがグニグニと動きながらあっちこっちに移動していく様にも似ている。
毎日がただ同じように過ぎている訳ではない。見えないだけで、実際にはちゃんと動いている。
態度や言葉やらに影響を受けながら。
本当にいい方向に人生を持って行こうとするなら、過去をどうこうしようなどとは考えずに、今をどう生きるかを考えないと何も変わらないんだよと、この作品は訴えているようだ。
でないと、こんな悲しい結末になるよ、と。
この映画を作った監督達には、こんな遺書を残して死んだ友人がいたのかもしれないな。
「ごめんなさい」と「ありがとう」の言葉は、元気に生きている内に言うのが花だよね。
こうならない為にもね。
しかし・・・、頭良すぎるのもだめなのね。
天才とキチガイは紙一重、何事もホドホドが良いって訳だわな。
脳にも、使用禁止の領域があるのかもな。
コメント
誰かのせいで自分がダメになってしまっても、それも全てその人のせいには出来ない。自分で変えていかないと。そうするまでには、とても大変な思いもするのでしょうけど。それをちゃんと受け入れられるかも、自分次第だし。
過去を変えることは出来ないのだから、今を、これからをどう生きるか、ちゃんと考えていかないといけないですね。