アラバマ物語

2006年4月3日 映画
DVD ビデオメーカー 2004/07/01 ¥500 ハーパー・リーのピューリッツァ賞受賞小説『ものまね鳥を殺すには』を原作に、名匠ロバート・マリガン監督が詩情豊かに描く社会派ヒューマン映画の秀作。
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久しぶりに観て、しみじみと自分の6〜7歳の頃を思った。

こんな感じ。正しくこんな感じ。

きっと誰の6〜7歳の頃も、こんな感じだったんじゃなかろうか。

人間が一番自分に正直で剥き出しの感性で生きているのが、この10歳までの時期なんだなぁとシミジミ思った。

年を重ねるにしたがって色々な物の見方を学んで行くけれど、この「自分の感性」を根底に残しておかなくてはいけないなぁと。

亡くなった義妹の、今年目出度く高校を卒業して就職もした長女がまだ3歳ぐらいの頃私達は仲が良くて、時々みんなで出かけたりしていた。

その時に私の子持ちの友人が「子供ってこうなのよ」と先輩ぶって姪の面倒を見ようとしたのだが、結局一緒に手を繋いで歩いたりしたのは私だった。

何故かと言うと、ヨタヨタ歩く姪の手を取ろうとする友人の手を、彼女は前方を向いたまま振りほどき続けて拒否したのだ。

右手は母親の手をしっかり握り締めている。そしてもう片方の手は知らないオバサンが握ろうとしている。

ヤだな。うっとぉしい。伯母ちゃんなんとかしてよっ。

そんな感じでついに彼女は私の方に母親を引きずるように走ってきて、私の手をギュッと握ってしまった。

子供の感性は残酷だ。折角面倒をみてあげようとしている他所のオバサンなんか、好きでもなければ手も握らせてあげないのだ。

幼い彼女は、オバサンの手から感じる「面倒を見てあげる」という押し付けがましい偽善を感じ取ったからなのか?

いゃぁ、ワカランがの。(^^ゞ

もともと幼い子供は好き勝手にさせてもらってるのが一番好きなんだしね。


どっちにせよ友人にとっては物凄いショックだったようで、暫く落ち込んでたが・・・

この友人には自分の理想を相手に押し付けるという変な考え方のクセがあって、勝手に自分で「この人はこういう人」と決め付けて見る所があった。

子供はこういうものなのよ。と友人は勝手に思いこんで接したのだろうが、多分一人として友人の鋳型に嵌る人はいない。そんな所を幼い姪は感性で見抜いてたんだろか?

「他者を理解したければ、その人の靴を穿いて歩きまわれ」

この映画の中で父親が子供に教える言葉だ。

大人になるにしたがって、今まで剥き出しでいられたものが次々にベールの奥に隠されて行く。

それは仕方がない事なのだけれど、失くしてはいけない物もある。

自分自身の感性だ。

それをしっかりと持って、そして他者の靴を穿いてみる。

そうでなければ、知らない内に借りた靴の持ち主と同化してしまうかも知れないし。


理解する事と同化してしまう事は、全くの別もんだ。

他者を理解するという事は、自分を理解するという事にも繋がるし。

自分を大切に出来る人は、他人も大切に出来る。

良く言われる言葉。だけど頭では分かっていても、心で身体で態度で理解するには時間が要る。

そんな時には、この映画の中の子供たちのような時期が自分にもあったのだと思い出すのも良いかも知れない。

好きな物は好きだし、嫌な物は嫌なのだ。

理屈じゃ無い。


私にこんな大きな父親がいたら、もう少しマシな人間になれたかしらんとか考える。

だけど人は人。

与えられた人生の中で、与えられた条件の中でやりくりするしかないのなら、この映画に出会えて「いい作品だなぁ」と思える感性を持ち合わせた事を喜びたい。

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