可能性

2005年8月21日 エッセイ
車椅子のお客様ご来店。

だけどいつも見ている車椅子の人達とは様子が全然違う。

その鍛えられた上半身は健康そのもので、逞しい腕で動かす車輪はまるで腰から生えていて、それ自体が意思を持ち自在に動いているかのように見える。

今まで車椅子に乗った人達といえば、何となくいじけてたり申し訳無さそうだったり、反対に当たり前の顔してたり意識が無かったり涎垂らしてたりと、所謂病人しか知らなかったわしにとって、こんなに健康的な車椅子族に会ったのは新鮮な驚きだった。

なんだか野原で心優しきケンタウロスに出会ったような感じがしたよ。

スポーツ選手だというその白人男性は、狭い店内には入れないながらも店頭で品定めをし、家族へのお土産を買って行ってくれた。にこやかで伸びやかで、とってもキュートな若者だった。

生まれつき肢体不自由で松葉杖を持たないと歩けないとか、ビッコを引かなくてはならない様な友達が何人かいるんだけど、彼らはみんなそれなりに工夫して楽しく「普通」に生きている。

確かに不便な事だって沢山あるし、嫌な目に遭った事だって沢山有るだろう。だけど、幸か不幸か私の友達達は皆前向きで、不自由な身体に対する愚痴を聞いた事は無かった。

だけど介護の仕事をするようになってからは、私の友達の様な人達は実は少数派だったのだと知って愕然としたよ。

特に生まれつきの障害者の中に「健常者は障害者の手足となって働け」とかいう過激な事を言う人達がいるのを知ってびっくりした。


健常者であれ障害者であれ、みんな持って生まれた運命の中で生きている。誰のせいでもない、自分の人生の課題だ。

半身マヒの状態でも、動かせる部分を使って自分の可能性を伸ばして行く人達がいる一方で、人の情けにすがりながらもそんな弱い自分を見て見ぬ振りをして、他人に自分の人生のツケを回してしまおうとする人達も居る。

ホント人それぞれだ。

誰がいいだの、どの考え方が正解だの、そんなものはないさ。

一生懸命に努力したっていいし、普通に出来ることをやってるだけでもいい。他人にすがって嫌われてもいいし、病人なんですからと言いながら、自分の可能性に気がつかないで感情に流されてしまったっていい。

自分のやりたいように生きればいいよ。

わしとしては、普通に楽しく、自分の可能性にチャレンジし続けられる人生を生きていくだけだよね。

いゃあ、やっぱ一生懸命自分の可能性を信じて前向きに生きている人に出会うのは清清しいや。

ハンサム君だったから、余計にそう思うのかもねぇん。

コメント

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索