漸く机周りの掃除にかかれた。
なんでだろうか。今までだって時間があったのに、5年も6年もほったらかしだった。
足の踏み場も無いって程じゃないけど、かなり酷い状態だったんだけど、どうにも気持ちが動かなかった。
で、やっと今日って訳だ。
またまたどっちゃりと古い雑誌類の山が出て、なんやら集めてた切り抜きが出て、埃塗れの変な置物が出てきて、そんなもの達をすっかり捨てたら非常にサッパリしたよ〜。
まぁ、捨てるのはまだまだ有るんだけど、夏までをめどに整理するべ。
その中に、古い手紙が何通かファイルに綴じられて有った。
普通の楽しい手紙ではなく、特別に分けて保存していた分。
喧嘩した後に、その相手とやり取りした手紙達。
読み返すと当時の事を思い出す。
自分が出した物はコピーをして、その相手の分と合わせておいた。
なんでそんな事したかと言うと、自分が何を書いたのかを自覚しておきたかったから。
案の定、読み返すのも恥ずかしい内容だ。そこに現れている内面の激しさ、自分を擁護する狡さ。なによりも相手を徹底攻撃している浅ましさ。
よく「手紙は書いたら一晩置け」といわれる。
頭に来たり夢中になったりして書いた文章は、一晩経って頭が冷えてから読むと、大抵は「どっひゃ〜」な内容だと解るからだ。
でも、喧嘩した時には、書いてその場で出して仕舞っていた。出してしまわないと気が済まなかった。目の前が真っ赤になっていたのだ。
だけど心の何処かで、さすがにこれはマズイかもと思ってもいたんだと思う。
はっきりと自覚はないのだが。
で、コピーなんかが取ってあると言う訳だ。
亡くなったぼんぼん先生に「気が6つに別れておるで。だけどその下にまだもう一つおるよ」と言われた筈だ。
ああ、恥ずかしいっっっっ (ーー;)
特にヒロ宛の文章が一番恥ずかしい。なんなんだこれは。こんな手紙貰ったって困るだけだよなぁ・・・・
狂ってたんだよなぁ・・・
で、破いた。ビリビリに破いて捨てた。
ああ、恥ずかしい過去だ。でもこれは立派な自分の姿でもある。よっく記憶しておこう。
そして、二度としないようにしよう。
そして、相手から来た手紙達。
ヤッパリ激しい言葉がならんでいる。
でもそれぞれに、良い方向に持って行こうとする努力の跡が伺える文章がならんでいる。あの頃はあまり実感がなかったのだが、なんか物凄く暖かくて優しい文章だ。
「・・・だけど、このまま仲直りしないでいたくない」
「電話ではご免なさい。あまり気にしないように」
「よくよく考えたよ。気持ちは同じさ」
・・・まったく、なんでわしゃ、こんなに大勢の人と喧嘩別れしたんだか・・・。でも時間をかけてみんながそれぞれの良い距離で仲直りしてくれたのは、本当に救いだわ。
みんな、本当にありがとね。これからも宜しくね。
だけど、その中で唯一つ、一回だけのやり取りで終わってしまった手紙がある。
亡くなった義妹との分だ。
彼女の手紙は、私が出した文章と同じか、それ以上に激しい物だった。
「私は絶対に謝らないっ」
自らの嘘で私を悪者にしておいて、矛先を捻じ曲げて、まだ「こんな手紙を出してくるなんて、なによっ」といった内容だった。
私も許せなかった。どうしてあんな嘘をつくのか理解出来なくて、激しく攻め立てた。
そして、その一回だけの手紙をやり取りした3年後に義妹は癌になり、その3年後に、自分の生活の全てを周りの人間に依存する格好で、みんなに「すみません、すみません」と感謝しつつ死んで行った。死んでしまった。
時に感情をぶつけ合うのは仕方の無い事だ。
みんな「出来の悪い人間」ばかりなんだもの。それだから、今ここに生きている訳で。
本当に出来が良くて、物分りがとても良かったら、それはきっと神様だ。
人として、生きている必要が無い。神様には神様としてのやる事があるんだろうから。
私達はお互いを「人として」理解する為に、生きているんじゃないだろうか。
そんな気がする。
6年振りに義妹の手紙を読み返して、今だったらもっと上手くできたのになぁと思う。
でも、もうみんな済んでしまった事。
彼女が亡くなるまでの一年間をかけて、私達は仲直りをした。
今はそう思いたい。思わせて欲しい。
気持ちの整理は、そうそう簡単につくものじゃないんだな。
なんでだろうか。今までだって時間があったのに、5年も6年もほったらかしだった。
足の踏み場も無いって程じゃないけど、かなり酷い状態だったんだけど、どうにも気持ちが動かなかった。
で、やっと今日って訳だ。
またまたどっちゃりと古い雑誌類の山が出て、なんやら集めてた切り抜きが出て、埃塗れの変な置物が出てきて、そんなもの達をすっかり捨てたら非常にサッパリしたよ〜。
まぁ、捨てるのはまだまだ有るんだけど、夏までをめどに整理するべ。
その中に、古い手紙が何通かファイルに綴じられて有った。
普通の楽しい手紙ではなく、特別に分けて保存していた分。
喧嘩した後に、その相手とやり取りした手紙達。
読み返すと当時の事を思い出す。
自分が出した物はコピーをして、その相手の分と合わせておいた。
なんでそんな事したかと言うと、自分が何を書いたのかを自覚しておきたかったから。
案の定、読み返すのも恥ずかしい内容だ。そこに現れている内面の激しさ、自分を擁護する狡さ。なによりも相手を徹底攻撃している浅ましさ。
よく「手紙は書いたら一晩置け」といわれる。
頭に来たり夢中になったりして書いた文章は、一晩経って頭が冷えてから読むと、大抵は「どっひゃ〜」な内容だと解るからだ。
でも、喧嘩した時には、書いてその場で出して仕舞っていた。出してしまわないと気が済まなかった。目の前が真っ赤になっていたのだ。
だけど心の何処かで、さすがにこれはマズイかもと思ってもいたんだと思う。
はっきりと自覚はないのだが。
で、コピーなんかが取ってあると言う訳だ。
亡くなったぼんぼん先生に「気が6つに別れておるで。だけどその下にまだもう一つおるよ」と言われた筈だ。
ああ、恥ずかしいっっっっ (ーー;)
特にヒロ宛の文章が一番恥ずかしい。なんなんだこれは。こんな手紙貰ったって困るだけだよなぁ・・・・
狂ってたんだよなぁ・・・
で、破いた。ビリビリに破いて捨てた。
ああ、恥ずかしい過去だ。でもこれは立派な自分の姿でもある。よっく記憶しておこう。
そして、二度としないようにしよう。
そして、相手から来た手紙達。
ヤッパリ激しい言葉がならんでいる。
でもそれぞれに、良い方向に持って行こうとする努力の跡が伺える文章がならんでいる。あの頃はあまり実感がなかったのだが、なんか物凄く暖かくて優しい文章だ。
「・・・だけど、このまま仲直りしないでいたくない」
「電話ではご免なさい。あまり気にしないように」
「よくよく考えたよ。気持ちは同じさ」
・・・まったく、なんでわしゃ、こんなに大勢の人と喧嘩別れしたんだか・・・。でも時間をかけてみんながそれぞれの良い距離で仲直りしてくれたのは、本当に救いだわ。
みんな、本当にありがとね。これからも宜しくね。
だけど、その中で唯一つ、一回だけのやり取りで終わってしまった手紙がある。
亡くなった義妹との分だ。
彼女の手紙は、私が出した文章と同じか、それ以上に激しい物だった。
「私は絶対に謝らないっ」
自らの嘘で私を悪者にしておいて、矛先を捻じ曲げて、まだ「こんな手紙を出してくるなんて、なによっ」といった内容だった。
私も許せなかった。どうしてあんな嘘をつくのか理解出来なくて、激しく攻め立てた。
そして、その一回だけの手紙をやり取りした3年後に義妹は癌になり、その3年後に、自分の生活の全てを周りの人間に依存する格好で、みんなに「すみません、すみません」と感謝しつつ死んで行った。死んでしまった。
時に感情をぶつけ合うのは仕方の無い事だ。
みんな「出来の悪い人間」ばかりなんだもの。それだから、今ここに生きている訳で。
本当に出来が良くて、物分りがとても良かったら、それはきっと神様だ。
人として、生きている必要が無い。神様には神様としてのやる事があるんだろうから。
私達はお互いを「人として」理解する為に、生きているんじゃないだろうか。
そんな気がする。
6年振りに義妹の手紙を読み返して、今だったらもっと上手くできたのになぁと思う。
でも、もうみんな済んでしまった事。
彼女が亡くなるまでの一年間をかけて、私達は仲直りをした。
今はそう思いたい。思わせて欲しい。
気持ちの整理は、そうそう簡単につくものじゃないんだな。
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