ISBN:477620004X 単行本 大谷 昭宏 アスキー・コミュニケーションズ 2002/10 ¥1,575
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昨年のスマトラ大地震の津波被害者の写真を掲載したサイトを、あちこちで紹介しているのをたまたま目にした。

年末年始、香港の普通の朝刊に毎日出ていた様な写真だけど、日本では先ずお目にかかれないようなものばかり。

東京でも「人体」を様々な形に標本した展覧会が盛況だったらしいけど、なんでこうも「死体」に感心が集まるんだろう。

「死体標本」になってしまった人達だって、生きていた時は誰かのお父さんだったり、可愛い娘だったりしたわけで。

だけど「死体」になってしまうと、他人にとっては本当にただの「死体」にしか見えなくなりやすい。

今回香港で買ったDVDやVCDの中に、「福伯」というマカオ警察の中で検死や死刑に携わる人達にスポットを当てた映画があった。この写真の本「死体は語る」の様に、死体になった人達にもスポットが当たっている訳ではなく、解剖作業に従事している人達と、死刑囚の最後の話を聞き、最後に食べたいという食事を出す係官の日常を淡々と綴ったとても地味な作品だった。

その中で、死んだ売春婦が寝かせられた台の横で、彼女を屈辱するような発言をする警官に対して、検死官の一人が「請積口徳」とたしなめるシーンが有る。

どうか、言葉の徳を積んで下さい。

口を慎めという意味なんだろうが、なんだか丁度時期的にタイムリーだったので、自分だけで変に納得してしまった。

香港でも、もうあの海岸には怖くて行けないよね〜、沢山のお化けが出るもんね〜などと軽口を叩く人達も多く、それはそれで仕方ないんだけど、あの写真の、瓦礫から突き出た手や足は、みんなかつては元気で愛されて生きていた人達だった筈。

でもそんな風に頭では思いながらも、心のどこかでは、ゴミの山の中に転がっている他人の肉体を、そのゴミと同等に見てしまう自分がいる。

都会の路上に転がって寝ている人達を見ても、死んでるのか生きているのかにさえ、全く頓着せず通り過ぎる自分がいる。

死んだらその肉体はカラッポ。本当のがらんどう。

それは親族や、親しい人達の遺体を見た時に感じた事。

でも、だからといって、「気持ち悪い」で済ませていいんだろうか。

インドでは津波被害に遭ったカーストの低い人達は、全く援助されていないんだそうだ。かれらの亡骸も生きている人達も、本当にゴミ同様に扱われてしまうんだと、香港の人権擁護団体が募金活動をしていた。


その一方で、遠いドイツや北欧から仕事のやりくりをして南の島に駆けつけ、家族の捜索に飛び回っている人達もいる。

人の命の重さって、本当にみんな同じなんだろうか・・・

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