山車の野辺送り 弔い太鼓
2004年10月16日 エッセイ
午前10時に始まった式は初七日の法要まで一気に済ませてしまい、今日の一番釜で義妹は焼かれた。
まだ会場自体はひっそりとしているが、予定表を見るとぎっしり全部詰まっていて、午後になると戦場になりそうな勢いだ。
今、それぞれの家族が、それぞれの家で同じ様に故人を弔っているんだろう。
斎場は別名「焼き場」とも言う。この言い方は好きではないが、でもそれしか言い様が無いのも事実。
此処には常に人が焼かれる臭いが漂っている。死臭とも違う独特の臭いがする。
それでも一番に焼かれたのは本当に幸運だった。
昔むかし、何人もが焼かれた後の釜で焼かれた葬儀に出た事があるが、あまり気持のいい物ではなかったのを覚えている。
まぁ、順番なんだからそれも仕方がないっちゃないのだが。
告別式の後、僅かに残った弔問客達に精進落としの料理を振る舞いながら、彼女の肉体が空に登って行くのを待った。
昨夜は知らせを受けて来た誰もが一応に酷いショックの表情をしていて、見ている方も痛々しかったのだが、昨夜に引き続き今朝も来てくれた友人達はとりあえずは落ち着いているようだったので、ひとまず安心。
昨夜の通夜に来てくれた昔の彼氏という人の「失礼ですが、ご病気だったんですか?」という言葉と表情も印象的だ。
義妹と同級生で、高校の時付き合っていたんだそうだ。そんな昔の元カノの葬儀にわざわざ来てくれる誠意の有る人を振ってあんなバカと結婚するとは、やはりあの子は運が無かったと義母は改めて嘆いていたが、運は自分で作っていくものだ。
誠意の有る人を振って、あんなバカと一緒になったのも、みんな彼女の選んだ道だったのだしね。
程なく時間になり、納骨室に入った私達は、ものの見事に色づけされた義妹の遺骨を見て、かなりのショックを受けた。
上半身がピンクに近い赤紫で、下半身は水色とかなり色の濃い緑色をしている。
あれは一体何なんだ?
一説には癌の治療薬による変色とも言われるが、本当の所は判らない。赤紫の方は何となくその骨の内部で血液を一生懸命作っていた形跡とも取れるけど、緑って・・・。
あまりのショックに、係りの人に聞くことすら忘れてしまった私達だった。
遺骨を骨壷に納めてしまえば後はもう帰るのみ。なんだかあっけない程サッパリとした告別式で、私達がホールに出てくる頃にはもう親族以外の弔問客の姿はすっかり無かった。
まぁ、何時までも長居する場所でもないものね。
お通夜の時は娘達の学友がゾロゾロと来てくれとても盛大な式になった。彼らが母親を亡くした友達を慰めてくれる姿は印象的だったが、それに比べると告別式の方は空いた席の目立つ、少し寂しいものになってしまった。
それでも義妹に、たとえ一握りでも友達が居たのは救いと言ってもいいんだろう。彼女の為に涙を流して弔ってくれる人がいたのは、彼女の築いた徳なんだろう。
通夜と告別式を通して、ただ一人の友達も来なかった愚義弟に比べれば、それがどんなにマシな事か判らない。
皆で義母の家に帰り着いて一休みしていたら、外でポンポンポンと花火の上がる音がした。
ああ、そうだ。今日と明日は地元の秋祭りだったっけ。
天気も良いし、まだ3時を回ったばかりだし。家に居ても気分は晴れないので、皆で着替えて出かける事にした。
何年ぶりなんだろか。こうして「家族」でお祭りに出かけるのは。
もっとも愚義弟だけは車の中で寝ていたので、敢えて起こさなかったし、誰も誘おうともしなかったのだが。
すっかり疲れ果てた義母が嬉しそうに子供達を見送ってくれた。告別式に出られなかった弔問客が来るかも知れないので彼女は家を空けられない。それでも「みんなに置いてかれた〜って泣くだ」と言いながら笑っている。
信じられない。以前なら激怒した場面なのに、笑っている。
信じられない・・・
お祭り会場に行く道すがら、私達は色んな所で道草くったり冗談言い合ったりしながらアハハハ笑っていた。
午前中兄弟のお葬式に行って、午後にはお祭りに行くなんて、なかなか経験出来ない事だと大笑いした。
末弟はこのお祭りの運営スタッフだが、今年は喪中という事もあり運営には携わらず、見に行くだけにしていた。
生前義父もこのお祭りにはスタツフとして深く関わっていたし、去年はまだ元気だった義妹も櫓に上げてもらって太鼓を叩いたんだそうだ。
家族としても関わりの深いこのお祭りとお葬式が重なるのも、やはり何かの縁なのかも知れない。
ゾロゾロと歩いていたら、末弟の友達が乗る山車が休憩している所に出くわした。
事情は皆先刻承知。
なんと、その時休んでいた山車のメンバー達が、休憩時間にも関わらず義妹の為にとお囃子を演奏し始めてくれたのだ。
とたんに皆涙ボーダの嵐。
娘2人はその場で抱き合って号泣するし、手に樽酒入りの紙コップを持った大人達もそれぞれ泣きながら「なんかドラマだったら、これが感動のラストシーンだよなぁ」なんて言ってるし。
通行人には怪訝な顔で見られたけど、こうやって野辺の送りをするのもいいもんだ。
昔からお葬式は賑やかに送るのがいいとされている。
送る側がジメジメとしていたのでは、その霊は心が残って成仏出来ないと。
そうなのかも知れない。こうやってトントコトン・ぴ〜ヒャララと賑やかに送って貰えればきっと楽しくあの世に行けるのかも知れないななんてね。
あの山車にはきっと義父が乗っていて、義妹を迎えに来てくれたのだと、私達は信じた。
そうやって散々泣いて笑って家に帰りついた頃、愚義弟はすでに自分のアパートに帰ってしまった後で、義母が遅れて来た弔問客の相手で忙しそうにしている最中だった。
その時の時間はまだ8時少し前。
姪っ子曰く「何だかとってもお徳な感じの日」
確かにね。心と時間を目一杯、使い切った感じがするよ。
師父も帰りの車の中で、物凄く悲しくて物凄く楽しい日だったと、目を赤くして笑っていたっけ。
まだ会場自体はひっそりとしているが、予定表を見るとぎっしり全部詰まっていて、午後になると戦場になりそうな勢いだ。
今、それぞれの家族が、それぞれの家で同じ様に故人を弔っているんだろう。
斎場は別名「焼き場」とも言う。この言い方は好きではないが、でもそれしか言い様が無いのも事実。
此処には常に人が焼かれる臭いが漂っている。死臭とも違う独特の臭いがする。
それでも一番に焼かれたのは本当に幸運だった。
昔むかし、何人もが焼かれた後の釜で焼かれた葬儀に出た事があるが、あまり気持のいい物ではなかったのを覚えている。
まぁ、順番なんだからそれも仕方がないっちゃないのだが。
告別式の後、僅かに残った弔問客達に精進落としの料理を振る舞いながら、彼女の肉体が空に登って行くのを待った。
昨夜は知らせを受けて来た誰もが一応に酷いショックの表情をしていて、見ている方も痛々しかったのだが、昨夜に引き続き今朝も来てくれた友人達はとりあえずは落ち着いているようだったので、ひとまず安心。
昨夜の通夜に来てくれた昔の彼氏という人の「失礼ですが、ご病気だったんですか?」という言葉と表情も印象的だ。
義妹と同級生で、高校の時付き合っていたんだそうだ。そんな昔の元カノの葬儀にわざわざ来てくれる誠意の有る人を振ってあんなバカと結婚するとは、やはりあの子は運が無かったと義母は改めて嘆いていたが、運は自分で作っていくものだ。
誠意の有る人を振って、あんなバカと一緒になったのも、みんな彼女の選んだ道だったのだしね。
程なく時間になり、納骨室に入った私達は、ものの見事に色づけされた義妹の遺骨を見て、かなりのショックを受けた。
上半身がピンクに近い赤紫で、下半身は水色とかなり色の濃い緑色をしている。
あれは一体何なんだ?
一説には癌の治療薬による変色とも言われるが、本当の所は判らない。赤紫の方は何となくその骨の内部で血液を一生懸命作っていた形跡とも取れるけど、緑って・・・。
あまりのショックに、係りの人に聞くことすら忘れてしまった私達だった。
遺骨を骨壷に納めてしまえば後はもう帰るのみ。なんだかあっけない程サッパリとした告別式で、私達がホールに出てくる頃にはもう親族以外の弔問客の姿はすっかり無かった。
まぁ、何時までも長居する場所でもないものね。
お通夜の時は娘達の学友がゾロゾロと来てくれとても盛大な式になった。彼らが母親を亡くした友達を慰めてくれる姿は印象的だったが、それに比べると告別式の方は空いた席の目立つ、少し寂しいものになってしまった。
それでも義妹に、たとえ一握りでも友達が居たのは救いと言ってもいいんだろう。彼女の為に涙を流して弔ってくれる人がいたのは、彼女の築いた徳なんだろう。
通夜と告別式を通して、ただ一人の友達も来なかった愚義弟に比べれば、それがどんなにマシな事か判らない。
皆で義母の家に帰り着いて一休みしていたら、外でポンポンポンと花火の上がる音がした。
ああ、そうだ。今日と明日は地元の秋祭りだったっけ。
天気も良いし、まだ3時を回ったばかりだし。家に居ても気分は晴れないので、皆で着替えて出かける事にした。
何年ぶりなんだろか。こうして「家族」でお祭りに出かけるのは。
もっとも愚義弟だけは車の中で寝ていたので、敢えて起こさなかったし、誰も誘おうともしなかったのだが。
すっかり疲れ果てた義母が嬉しそうに子供達を見送ってくれた。告別式に出られなかった弔問客が来るかも知れないので彼女は家を空けられない。それでも「みんなに置いてかれた〜って泣くだ」と言いながら笑っている。
信じられない。以前なら激怒した場面なのに、笑っている。
信じられない・・・
お祭り会場に行く道すがら、私達は色んな所で道草くったり冗談言い合ったりしながらアハハハ笑っていた。
午前中兄弟のお葬式に行って、午後にはお祭りに行くなんて、なかなか経験出来ない事だと大笑いした。
末弟はこのお祭りの運営スタッフだが、今年は喪中という事もあり運営には携わらず、見に行くだけにしていた。
生前義父もこのお祭りにはスタツフとして深く関わっていたし、去年はまだ元気だった義妹も櫓に上げてもらって太鼓を叩いたんだそうだ。
家族としても関わりの深いこのお祭りとお葬式が重なるのも、やはり何かの縁なのかも知れない。
ゾロゾロと歩いていたら、末弟の友達が乗る山車が休憩している所に出くわした。
事情は皆先刻承知。
なんと、その時休んでいた山車のメンバー達が、休憩時間にも関わらず義妹の為にとお囃子を演奏し始めてくれたのだ。
とたんに皆涙ボーダの嵐。
娘2人はその場で抱き合って号泣するし、手に樽酒入りの紙コップを持った大人達もそれぞれ泣きながら「なんかドラマだったら、これが感動のラストシーンだよなぁ」なんて言ってるし。
通行人には怪訝な顔で見られたけど、こうやって野辺の送りをするのもいいもんだ。
昔からお葬式は賑やかに送るのがいいとされている。
送る側がジメジメとしていたのでは、その霊は心が残って成仏出来ないと。
そうなのかも知れない。こうやってトントコトン・ぴ〜ヒャララと賑やかに送って貰えればきっと楽しくあの世に行けるのかも知れないななんてね。
あの山車にはきっと義父が乗っていて、義妹を迎えに来てくれたのだと、私達は信じた。
そうやって散々泣いて笑って家に帰りついた頃、愚義弟はすでに自分のアパートに帰ってしまった後で、義母が遅れて来た弔問客の相手で忙しそうにしている最中だった。
その時の時間はまだ8時少し前。
姪っ子曰く「何だかとってもお徳な感じの日」
確かにね。心と時間を目一杯、使い切った感じがするよ。
師父も帰りの車の中で、物凄く悲しくて物凄く楽しい日だったと、目を赤くして笑っていたっけ。
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