玉に傷

2004年8月18日 エッセイ
前回の続きを少し。

カルトー・ホラースターのフレディとジェイソンにも、本当の所弱点は有ると思う。

2人の事を「認め」て「慰め」て、愛してくれる人に出会えば、その魂は癒されて浄化されてしまうのだろ。

その愛とは、ジェイソンの母親の様な、自己満足が押し付ける一方的な愛と言う名の「束縛」とはまったく違う。

この映画のラストに有る、子供の自分が溺れた時に手を差し伸べて助けようとしてくれた人に対する、ジェイソンの眼差しがそれを雄弁に物語っているからだ。

だけど、所がどっこいそうは問屋が卸さない。

映画の作り手達は、そんな事百も承知の上で、それをしない。

完全に間違った方法で、子供達に危機回避させたりしている。

「忘れろ」と。

怖いものは忘れてしまえと。

その存在を否定しろと。

これでは、いつでも悪夢は蘇ってくる。

癌の存在を無視したり、ヘタに戦ったりすると、返って暴れだしてしまうのに良く似ている。

こういうシリーズ物は、そういった「解っちゃいるけど・・・」的な要素が無いと続かないのかも知れないのだがの。

最近、そういう「玉に傷」的な物を大切にしたいなぁ、なんて思って居る。

完璧な美人なら、性格が悪いとか、オツムが緩いとか。

あんまり何もかも恵まれていると、「アンタの生きている意味って何よっ」とか因縁つけて詰よりたくもなる。

みんなどこかに不足してる物があって、それで何となくバランスが取れているのなら、なにも其処を突いて、わざわざ直す努力をする事もないのかなとかね。

何にせよ、もし悪い所があったなら、その悪い所は自分が気付かないかぎり治しようもないんだからね。

その事に対して、他人がやきもきする事もないかなと。

最近そう思うわけだ。

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