ブラザー・サン シスター・ムーン
2004年5月22日 映画
故淀川長治氏は、生前の公演で「どんな駄作にも、得るものはありますよ。映画というものは人生の縮図なんですから」とおっしゃっていたが、本当その通りだと、最近特に感じるようになった。
どんなに不出来な作品にも、必ず一つは、心に引っかかるフレーズなり、場面なりが出てくるものだ。
そうやって、今の生活を少しでも良くするヒントを得る為に、私は飽きもせず映画を観ているのかも知れない。
それに、昔ピンともこなかった物が、時を経て感じ方や見方が変わり、自分の中で「名作」となって残る場合もある。
一人で映画館に行くようになったのは12歳の時なのだが、映画の感想ノートも15の時から付けていて、それを今見直すともう赤面と感動の嵐だ。
年が若いので見方が狭いのは仕方が無いし、映画自体の出来も良くないのかも知れないし、まだ内容が良く理解しきれてないのかも知れないが、とに角面白い。
この「ブラザー・サン シスター・ムーン」は、そんな映画ノートをつけ始める以前に見た内の一本なので、当時の感想をハッキリと思い起こす事は不可能なのだが、やはり、イマイチ理解しきれていなかったんだと思う。
こんなに良い作品とは思ってなかったからだ。
何となく「いいな〜」とは思った記憶はあるが、「泣いた」記憶は無い。ただ薄っぺらに表面をなぞって終わっていたらしい。
少し「退屈」だった覚えもある。
子供だったんだなぁ。仕方ないか、中学生だもんなぁ。
見直して良かった・・・
富豪の家の跡取りに生まれながら、一生を清貧の中で生きた聖フランチェスコの若き頃の話なのだが、多分今の私に、その生き方がしっくりと感じられるからこそ、こういう感想も出てくるんだろう。
そうでない人が観て、同じ感想を持たなくったって、それは仕方のない事だ。
みんなそれぞれ、歩いている道がちがうんだから。
少し前に、知り合いの友達の高校生の子供が、「なにもかも満たされているというのも、つらいものです」という遺書を残して、自分の友人の住む場所の近くで自殺したという話を聞いた時に、その子の言う「満たされている」ものを、誰かに分け与えると言う考えが何故でなかったのかと思ったんだけど、それは大きな間違いだったと、これを観ていて思った。
何もかも満たされていれば、死にたくなる程の虚無など感じる訳が無い。
何も無い、カラッポな感じで、心がスースーしているから、辛くてつまらなくて、どうでも良くなって、死にたくなってしまうのだ。
キリスト教の人達は、よく「今私は神の愛で満たされる。私の中は神の愛で溢れかえっている」という様な表現で、自分がとても幸せだという事をアピールする。
愛されている存在であると。
仏教徒達は「仏が導いてくれる。仏の言葉に従い、その後を付いていく」と言う様な表現をする。
歩く道を知っている存在だと。
他の宗教はどうなんだろうか。あまり良く知らないので、やたらな事は言えないのだけれど、なんか大きな意味では、みんな言っている事は同じような気がするのだよ。
私はここに存在し、他者にそれを認められる事を許された「存在」である。という安心感を、みんなが求めて居るんじゃないだろか。
許しましょう、許される為に。
愛しましょう、愛される為に。
信じましょう、信じられる存在である為に。
「生きていてよろしい」という確証が無いような気がして、こんな簡単な事柄も出来ない人が多くなる。
許して欲しい。愛して欲しい。信じて欲しい。そんなさもしく飢えた心から出る言葉に、魂が宿る訳も無い。
肉は肉からしか生まれず、霊は霊からのみ生まれる。
全ての事柄からの執着を捨てるというのがどういう事なのかを、この作品を観ながら、また、考えてしまった。
どんなに不出来な作品にも、必ず一つは、心に引っかかるフレーズなり、場面なりが出てくるものだ。
そうやって、今の生活を少しでも良くするヒントを得る為に、私は飽きもせず映画を観ているのかも知れない。
それに、昔ピンともこなかった物が、時を経て感じ方や見方が変わり、自分の中で「名作」となって残る場合もある。
一人で映画館に行くようになったのは12歳の時なのだが、映画の感想ノートも15の時から付けていて、それを今見直すともう赤面と感動の嵐だ。
年が若いので見方が狭いのは仕方が無いし、映画自体の出来も良くないのかも知れないし、まだ内容が良く理解しきれてないのかも知れないが、とに角面白い。
この「ブラザー・サン シスター・ムーン」は、そんな映画ノートをつけ始める以前に見た内の一本なので、当時の感想をハッキリと思い起こす事は不可能なのだが、やはり、イマイチ理解しきれていなかったんだと思う。
こんなに良い作品とは思ってなかったからだ。
何となく「いいな〜」とは思った記憶はあるが、「泣いた」記憶は無い。ただ薄っぺらに表面をなぞって終わっていたらしい。
少し「退屈」だった覚えもある。
子供だったんだなぁ。仕方ないか、中学生だもんなぁ。
見直して良かった・・・
富豪の家の跡取りに生まれながら、一生を清貧の中で生きた聖フランチェスコの若き頃の話なのだが、多分今の私に、その生き方がしっくりと感じられるからこそ、こういう感想も出てくるんだろう。
そうでない人が観て、同じ感想を持たなくったって、それは仕方のない事だ。
みんなそれぞれ、歩いている道がちがうんだから。
少し前に、知り合いの友達の高校生の子供が、「なにもかも満たされているというのも、つらいものです」という遺書を残して、自分の友人の住む場所の近くで自殺したという話を聞いた時に、その子の言う「満たされている」ものを、誰かに分け与えると言う考えが何故でなかったのかと思ったんだけど、それは大きな間違いだったと、これを観ていて思った。
何もかも満たされていれば、死にたくなる程の虚無など感じる訳が無い。
何も無い、カラッポな感じで、心がスースーしているから、辛くてつまらなくて、どうでも良くなって、死にたくなってしまうのだ。
キリスト教の人達は、よく「今私は神の愛で満たされる。私の中は神の愛で溢れかえっている」という様な表現で、自分がとても幸せだという事をアピールする。
愛されている存在であると。
仏教徒達は「仏が導いてくれる。仏の言葉に従い、その後を付いていく」と言う様な表現をする。
歩く道を知っている存在だと。
他の宗教はどうなんだろうか。あまり良く知らないので、やたらな事は言えないのだけれど、なんか大きな意味では、みんな言っている事は同じような気がするのだよ。
私はここに存在し、他者にそれを認められる事を許された「存在」である。という安心感を、みんなが求めて居るんじゃないだろか。
許しましょう、許される為に。
愛しましょう、愛される為に。
信じましょう、信じられる存在である為に。
「生きていてよろしい」という確証が無いような気がして、こんな簡単な事柄も出来ない人が多くなる。
許して欲しい。愛して欲しい。信じて欲しい。そんなさもしく飢えた心から出る言葉に、魂が宿る訳も無い。
肉は肉からしか生まれず、霊は霊からのみ生まれる。
全ての事柄からの執着を捨てるというのがどういう事なのかを、この作品を観ながら、また、考えてしまった。
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