サトさんのダンナは職人さん。

家にはいつも沢山の若い衆がいて、彼女は彼らのおっかさん的存在でもある。

サトさんは垢抜けた外見とは裏腹に、とても忍耐強くて面倒見の良い鉄火姉御なので、日頃はあまり愚痴らしい事もいわないのだが、最近寄る年波のせいかあちこちにガタが来始めたと、嘆かれてしまった事があった。

先ず手が上がらない、腰が痛くて座っていられない。目が良く見えない、人の話が聞き取れない。

年だと言ってしまえばそれまでなのだが、サトさんの中には、まだなんかありそうだ。

で、「たいへんですねぇ」と彼女の言い分を全て受け止めてみた。

すると、なにがどうなったのか、突然堰を切ったように彼女が話し始めたのだ。

外国に移住した娘の事、怪我をして以前のような仕事が出来なくなった息子の事、楽しい事、大変な事を語る言葉がまるでなだれの如く溢れ押し寄せてくる。

サトさんも、余程たまっていたらしい・・・・・。

そして、その中でもサトさんが特に力を込めて話したのは、ダンナのお母さんの話だった。

お腹の大きいサトさんに

金も無いのにガキなんか作りやがって

と風呂の手桶を蹴飛ばしながら悪態ついた話とか、煮物炒め物の時に使う「菜箸」の「回し方」までいちいち傍について指示した話とか。

聞いているこちらの方が参ってしまう話ばかり。

で、いくら我慢強くて優しいサトさんもいよいよ堪忍袋の尾が切れたので、どうしたらいいものかと実家のお母さんに相談に行ったのだとか。

そしたら、お母さん曰く

人間死ぬ時は誰でも「ありがとう」と「ごめんなさい」を言うのだから、あんたは何もしなくていいの。

と諭されたのだそうだ。

で、その悪たれ姑が病院で亡くなる時も、サトさんは一生懸命に看病して、自分自身が悔いを残さないように出来る限りの事はしたのだとか。

そしたら、本当にその婆がサトさんの手を握って今までどうもありがとう、ごめんね。と言ったという。

此処で終われば、それなりの美談なのだが、この話にはオマケがあるのだ。

手を握られてお礼の言葉を掛けられている当の本人は、心の中で「このくそ婆ぁ、何でもっと元気なうちに言わないのよ。こんな死にかけに言われたら、許さない方が悪者になっちゃうじゃないのさ」と思っていたのだという。

サトさんはとても真面目で正直な人だ。曲がった事が大嫌いで、とてもサッバリした性格の人。

なのに、なのに、こんなにも、恨みの気持ちが残るのだ。

心では許した気持ちを持たなくてはと思いながらも、体がそれを拒んでいるのだ。

サトさんの姑が亡くなったのは、実はもう20年も前の話。

償いの言葉はなるべく早く、当人の前でじかに言った方が良い。「まっいいか」とほうっておくと、そのうちに、原因不明の身体症状になってその人を苦しめたり、言われっぱなしなっている方をも苦しめてしまう。

人は、自分の存在を尊重されない状況では、生きていられないと思うよ。

サトさんの場合は、今まで誰にも話さなかったその話をダンナや子供達にするようになって、そりゃ大変だったねぇと認めて貰ったら、だんだん身体の症状が軽くなってきたという。

不思議だが、本当の話だ。

昔、abc小姐とNGO関連ショップの店番をしていた時に、近くの病院に入院している知り合いを見舞いに来たというお客さんが、同じような事を言っていた。

「急に電話で、会いたって言ってるから来てくれませんかって家族から呼び出されて。それで、今日皆でお見舞いに来たのよ。でもねぇ、今頃ごめんなさいって言われても、こちらもどう対処していいのやらって感じでね。なんかさぁ、もっと早く言えなかったのって。もう長くないらしいんだけど、私達にはどうでもいいわって」

そんなものだ。

私は以前、関係がまずくなって喧嘩別れをしてしまった人に対して、同じ失敗を繰り返さないように、これから気をつけようと思えば良いと思っていた時期があった。

でも違う。

喧嘩別れというのは、その人を形作っている細胞を傷つけてそのままに放置している状態をいう。

その時、心も頭も、自分のプライドにかまけていて、細胞の言う事なんか少しも聞いてやっていない。

自分の肉体はどうして欲しいのか。

詫びるという行為には、二面性がある。

上っ面の、言葉だけの詫びと、本当に心の底からの詫びと。

この二つを見極めるのは、もしかしたら難しいかも知れない。

言っている本人にすれば、その時は本心から出た詫びではあるんだろうし。

ごめんなさい という言葉には美しい響きがある。

ありがう もまた。

美しい響きを持つ言葉だからこそ、嘘はすぐにばれてしまう気はする。

薄っぺらな心から出た言葉は、聞いている人の魂には響かない。何度も何度も言えると思うからこそ、口から出任せに軽く発してしまうが、ペラペラのその嘘はすぐにバレてしまうだろう。

死にかけた人が発するこの二つの言葉は、二度と言う事が出来ないからこそ、本当に心の底からの感謝の気持ちが込められているのだろう。

だからこそ、それを聞かされた人達は、その言葉を発した人間を許す事が出来ない自分にとまどって、苛立って、そして、困ってしまうのだ。

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