化石

2004年2月6日 エッセイ
昨日今日で、何故か長い長い日本映画を二本観てしまった。


「化石」と「天平の甍」


片や人生の大半を唐の国で仏教の勉強に励んだ青年、片や同じく人生の大半を金儲けと他人との競争に費やして、挙句に癌に侵されてしまった初老の男の物語。


まぁ、なにげに録画しておいたのだが、「ビデオ占い只今続行中」といった趣で見た作品だわな。だから内容なんて丸で知らなかったのだが・・・。



何が正しくて、何が間違いかなんて、死んでみなきゃ分からんとかよく言われるけど、ホントそうだよね。



「天平の甍」の中に、30年間唐の寺で写経に精を出し、何万本という経の巻物を仕立てた僧が、「私の書いた経典が、正しい仏教を日本に広めていくんだよ」と喜び勇んで船に積み込むんだけど、途中嵐に遭って他の荷物と共に海に捨てられ、絶望して自分も海に飛び込んで自殺するシーンがある。



執着を無くすのが、仏陀の教えである筈なのに、自分の書き移した経典に気持ちが残る僧の姿は、「自分の物・大切な者」に対する人の気持ちの深さを考えさせられる。



海草の様に海の中を漂う経典のにじんだ文字。


元々がインドの方言で語られた言葉を、文字を持つ言葉に置き換えられ、三蔵法師によって中国で漢字に訳された仏陀の言葉。


「今の日本には、いい加減に移された経典しか出回っていない」と言う僧の言葉。


でも、元々が電報ゲームではないけど、少しずつ変化してるシロモノだと思うんだけど・・・・・。


それに、あんなに何万本もあるのに、結局最後は「空」の境地に至るのが良いという、極めてシンプルな教えの言葉。


空と無関心とは違うのだろう。


執着と愛情も違うのだろう。


その違いを、自分なりに見つめて考えていけば良いだけだと思うんだけど、甘いのかなぁ、私の考えは。


「化石」の主人公の姿を見ていると、確かに簡単にそう思えない人がいるから、あんなに沢山の経典が必要なんだなぁと思う。



丁度テレサ・テンの人生をテレビの特番でやってて、その中にテレサの言葉でこんなのがあった。


「また、生まれ変わってテレサ・テンをやるかと言われたら、私には答えられません」


だよね、判らないよ。



誰だって、死ぬまで、答えが見つけられないようになってるんだと思うよ。

コメント

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索