濟公

2004年1月8日
昔むかし、中国の西湖の畔の寺に、濟公と呼ばれるお坊さんがいた。

十八羅漢の1人降龍羅漢の生まれ変わりで、破天荒な格好で酒を飲み肉を喰らい、権力に盾突いて、苦しむ人民を救ったという。


これは香港でも人気の有る伝説の人物のお話。よく映画の題材としても使われていて、「少林サッカー」の周星馳主演のものが「マッドモンク」と言う題で、日本のレンタル店でも借りて見ることが出来る。


コテコテの香港ギャグ満載なので、「乗れ無い」人にはお勧めしませんが、なかなか面白く出来てはいます。


輪廻転生が題材となっていて、人の魂の浄化を信じ、必ず因果因縁の鎖を断ち切って、人は変わる事が出来る。という事を願って即身仏になった偉いお坊さん濟公。


映画では、三度殺人鬼として生まれ変わった男と、三度乞食となった男、そして三度娼婦となった女が、それぞれ濟公と出会ってどうなったか、というストーリーになっている。

台湾には、実際にこの濟公の教えを受け継ぐ人達の団体があって、日本にも大きな支部が埼玉県に有る。文化大革命の時に弾圧に会って、台湾に逃れてきた人達が持ってきたそうだ。



新興宗教なのかなぁとも思うのだか、本人達はいたって拘らず、「宗教団体ではないんですが、まぁ、仏の教えですしね、宗教くさいといわれれば否めませんですかね。私達は人としての正しい道を歩きましょうという事を言って回ってるだけなんですよ」とのどかに笑っておられたのが印象的だった。



だから「集会に来い」とか「お布施はいくらいくら」などと言うはずもなく、「濟公の教えを聞いたら、それを守ってくださるだけでいいんですよ」と言われてしまった。


丁度大阪でぼんぼん先生と出会い、息を吹き返して東京に帰ってきたばかりの頃の話。なんだか訳も判らない内に、出合った人々だった。


それ以後、彼らとの接点はなにも無い。でも出合った時の記憶は鮮明に覚えている。

旧暦では、ヒロの誕生日の日だった。


変な事おぼえてるなぁ・・・。



映画の中では天界での3日間の出来事として描かれているのだか、その期限付きの日々の中で濟公と出合った人達がどう変わりどう考えたかを、そして濟公自身もどう変化したかという事を、見た人達それぞれが考えるようになっている。



変わりたくなければ、変わらなくてもいい。

人の足を引っ張って、引きずりおろして自分だけ良い思いをしたければ、そうしてもいい。


いう事を聞かない自分の子供を、言葉や身体への暴力で虐待したかったらすればいい。


話の会わない職場の人を、みんなでシカトしたかったら、そうすればいい。


人の行く道は一つではない。他人の話を聞いたり見たりした所で、ピンともスンとも感じない人の事に、神経をすり減らして悩む事は無い。自分を信じて、何が人としての道なのかを、自分で追求していけばいいだけだ。


いつでも、気づいた時から、少しずつ道に変化が出てくる。



最近は、まるでルービック・キューブの組み合わせがカチッカチッと変わっていくようだなとも思ってしまう。


線路の切り替えみたいでもあるなぁと。


人は時々、自分の人生の中で迷い悩んで立ち止まってしまう事がある。

そこが岐路だ。



辻、追分、分かれ道、色々な言い方がある。


辻占いの語源は、迷った時に辻に立ち、自分で「何番目に来た人の話を聞く」と決めて、実際にその人達が話している内容を聞きかじり、自分の悩みをとくヒントとする所から始まったのだと、山王日枝神社の神主さんが言っていた。

これもぼんぼん先生と出合ってすぐの頃の話。


人にも会えず、勝手に「ビデオ占い」と称してビデオ店に通い詰めていたのもこの頃だ。



内容も知らないランダムに選んだビデオの中に、確かにその当時の私の心を打つものが必ずあった。


「これかぁ・・・。人間って、本当に、見捨てられてる訳じゃないんだなぁ」



と、その時はぼ〜っとした頭で思ったものだ。

「守られてはるよ。大丈夫、元気出しい」


ぼんぼんにそう言われると、「どこかで私を守ってくれている人の為にも、シャンとせなアカン」という気持ちになったから不思議。

彼は濟公の生まれ変わりだったのかなぁ、などと思ってもみるが、それはぼんぼん先生の一番嫌がる事の一つだったのだから、やめときまひょ。

まだまだ、ここ暫くは、気持ちの整理が付きそうにないな・・・



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