桜木町のとある小さな山の教会で、季節恒例の蓄音機コンサートがあった。
2000年あたりから始まって、もう7回目。

今回が一番参加人数が少なかった。


こじんまりとした集まりが、蓄音機には良く似合う。穏やかな気持ちで、シャンソンやジャズを聴いていると、音というのは、ホント身体全体で聴いているのだなぁと感じる。


実際の音を聞いたのは一度しかないのだが、バイブオルガンには「聞こえない音」というものが出ているのだそうだ。


音と音の間に存在する「聞こえない音」


オルガンを中心とした大きな空気の振動、豊かな音のゆらぎ。


その「聞こえない音」が、聴く人に心地よさを与えるのだとか。


お風呂に入った時に、お湯の中に顎すれすれま
で沈んだ状態で歌を歌うと、首のあたりのお湯が細かく振動しているのが判るが、音というのは単に口から出ているばかりではないという事も判る。


蓄音機には、そんな音の揺らぎを感じるだけの余裕があるのかも知れない。


同じ曲なのに、レコードで聴いて大好きだったものが、CDになったとたんに嫌いになってしまったものがある。



正確にはCD版が嫌いという意味だか。


それはジム・クロウチの「タイム・イン・ア・ボトル」


あの名曲が、CDでは単なる薄っぺらな「うた」に成り下がってしまったのを聴いた時は、本当にガッカリした。


録音の仕方かもしれないのだが、早くて気ぜわしくて、なにより「硬く」感じて不愉快だった。


声のビブラートというのは、力を抜いた状態で声を出すとごく自然に出てくるが、これをわざと出そうとすると、とても「いやらしく」て感じ悪く聞こえてしまう。


何故だろう。


その反対に、日本語には「一本調子の声」という駄目な声の代名詞があるが、抑揚のない声は、聞いているうちに不安感が募ってきてイライラしてしまうのだという。


歌が上手なのに、評価の低い人がいたら、間違いなくこの「一本調子」の声だ。


技術の問題ではなく、心の問題。


硬い心に硬い声は宿る。

低く落ち着いた声には、とても細やかな「揺らぎ」を感じる。


今日のプログラム最後の曲は、ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」。


柔らかくて、穏やかなその歌声は、子供の頃から大好きだったけど、蓄音機から出る音で聴くのは初めて。

レコードよりも、身近に感じるのは、気のせい?


大寒波がやって来て、物凄く寒くなった日。

ケーコから昨日のお礼の電話が入った。私の地元は、今大雪だとか。

実家の母からは「遭難しそう〜」だと。

もう15センチも積もっているんだとか。この時期に雪が降るのはとても珍しいのだが、もう少しズレて、クリスマスに降れば面白かったのにねぇ。


東京でも、身を刺す様な冷たい風の中に、かすかな雪の気配を感じる。


自分と共に同じ時代を生きる友達の気配を感じる。

自然の中で、私達は、いつもこうやって共鳴しながら生きているんだなぁ。


自分ひとりで、音を出そうとしても・・・
出ないよ・・・・・。


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