昔、サツチャンという友達と仲良くしていた時の話。

彼女の家の花瓶に赤いバラの束が生けてあったのを見て私が

「わっ、綺麗な赤いバラ」
と言ったら、サツチャンはすかさず


「違うわ、それはスカーレットよっ」
と訂正してきた。

どうでもいい話なのだけど、人と人が食い違うっていうのは、つまりこういう事なんだなぁ。と、その時思ったわけだ。



「はぁ、スカーレットっスか。赤い色には変わらないじゃん」

「ちがうわっ、私には、その色はスカーレットなの。その言葉じゃないとその色を理解出来ない」


彼女は多分とても極端な例なのだと思う。でも、私達は、多かれ少なかれ、己のこだわりの中で、自分の概念にそった物を見、理解するのだという。


子供の頃から、いつも自分の見ている物は他人にはどう見えているのかが、とても気になっていた。


それは、あるSF小説の影響もあるのだが。


サッチャンとの時は、まだお互いに若かったので、「どっちでもいいじゃん。なにそれっ、お前変だよ」「駄目よ、譲れないっ、これは赤じゃなくてスカーレツトだもん」と喧嘩になってしまった。


はぁぁぁぁ、くだらない・・・・。


アグネス・チャンの子供がまだ小さかった頃、彼女は子供をしつけるのに広東語を使っていた。



英語も日本語も堪能な人だが、広東語という「自分の言葉」でないと、気持ちも愛情もこもらない様な感じがして、あえて広東語をつかうのだと言っていた。



人には人のこだわりがある。私の仕事である老人の介護をする上でも、それが最優先の課題だ。


私は母親から、ガチガチの価値観を強制されて、それが嫌で嫌で、母とも自分の内面とも戦って、今の状態を作り上げて来た。



それでも、まだ「押しが強くてうっとうしい事をする独善的で嫌な人」のイメージを持たれてしまう様だ。

母の影が背中にべったりくっ付いてるのかいな。



ひゃ、そりゃ大変だ。

今自分が、何をしているのか、落ち着いて考えてみよう。



私は、今、自分以外にも、自分の住む世界には沢山の人間が住んでいるのだ、という事を学んでいる真っ最中だ。



なぜなら、私の四柱推命には「たった一人で田園に住む」と出ているから。

だからあなたはそうなのよ。ではなく、四柱推命の深さは、その裏に出る星を見ないと始まらない。

悪い星が出ても、自分しだいでいつでも変える事が出来る。


人には人の生き方、行き方がある。


人の道は、私の道ではない。

己に対峙して、その答えを見出す、まだ途中だ。

今日はジョン・レノンの命日。


ジョンのメッセージは永遠。


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