夕なぎ

2003年10月10日
「君の真意は謎だ」

「私はあなたといる。それが私の真意。ダビッドがよければ彼といるわ」

「・・・だが、彼は心の中に・・・」

「私の心は広いの。・・・そうね、彼は心の中に・・・。なぜかしらね。なぜだかあなたを愛しているし」

「私を愛していると?」

「ええ、そうよ」

「私は君には似合わない男だが」

「・・・そうね」

これは「夕なぎ」という1972年フランス・西ドイツ・イタリア合作映画の中の恋人同士ロザリーとセザールの会話。前の夫との愛の無い関係を清算し、自分との愛情溢れる生活を始めたばかりのロザリーの元に、かつての恋人ダビッドが現れた事で、それぞれの心にさざ波が立ち始めた頃のセリフだ。

この映画が作られた頃、同じようなシチュエーションで「きんぽうげ」(スェーデン)と「ガラスの部屋」(イタリア)というのがあったが、当時なぜかこの作品だけ見逃していて、今この年・この状況になって見るというめぐり合わせに、何と言うか、「感無量」な思いでイッパイになる。


若いカップルと流浪の旅人との心の交流を描いた「きんぽうげ」は、旅人の子供を身ごもった彼女と共に暮らす事を受け入れる男の話。自然の中での、のびのびとした描写が美しい作品だ。

片や「ガラスの部屋」は、1人の美少年と出合った事で、自分の心の中に閉じ込めていた同性愛の感情を、図らずも受け入れざるをえなくなった男と、彼ら2人を愛しているからこそ、自分の肉体を通してお互いの愛を確認していく二人を見守る道を選んだ聖母の様な女の話。

どちらも、結末はとっても不幸で泣いたのだった。特に「ガラスの部屋」は。

でも、この「夕なぎ」は、良い意味で「進んで」いる。今の自分にはこの映画の結末が本当の意味での救いになってくれた。

なによりも、お互いを見る時の眼差しが良い。微笑む笑顔に余裕の有るのが心地よい。みんなが悩んで悩んで、そして、この映画のような結末を迎えたいと思えるようになると良いと思う。

本当に大切なのは、肉体の繋がりではなく魂の絆。お互いの存在をかけがえの無いものと思うのならば、私はやはりこの結末のように、ほっとする笑顔でお互いを見つめあう、ゆとりの有る関係でありたいと思う。そして、共に居る時、心の中が夕なぎのように穏やかで平和なら、もうなにもいらない。


次の文章は、自分の置かれている不安定な状況に耐え切れずに、ロザリーの元から失踪してしまったダビッドに宛てた彼女の手紙。届くかどうかも判らないままに、彼女はパリにあるダビッドの事務所宛てにバカンス先の海の別荘から手紙を出し続ける。

それはどこか、私が香港に行くたびヒロに出し続けている手紙に似ている。

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長い海岸を歩いています。忘れていたこの家。昔と同じ様でいて、同じではありません。愛するものは再現出来ないもの。月曜は波が立ち、私は満足です。

これが五通目、また無言の返事を。

下から家族の笑い声、寂しいと書けば嘘になります。

もう会えない。でも気になるのです。

何処にいるの? 返事は無し・・・

マリテは海で危うく死に掛け、シモーヌは恋を。私は朝市で、青い服と白い服を買いました。母は何故か自動車の免許を取得。アントワーヌも来ました。

服を買ったなんて嘘。私の話をしたかっただけ。

辛いのは無関心ではなく、恨み、あるいは忘却。

ダビッド、セザールは常にセザール。あなたは常にあなた。

私をさらわず連れ去り、捕らえず捕らえ、欲しがらずに愛する・・・・・。

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元々のフランス語のセリフも良いのだろうが、なんとも詩的な表現で、美しい日本語訳をなさった深沢三子さんにも感謝。

メルシー !      


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